春空のような射光がじんわりと肩に汗を走らせる。ワックスで綺麗に磨かれた
床への照り返しが、えり子の眼鏡を光らせる。
「夏のくせに生意気な・・・」
そう言うと、えり子は表皮から滴り落ちる純度90%の水を拭い取り、
目の前にある『an an』に再び目を落とした。
室内の温度は既に38℃を越えていた。しがない地方の一公立高校に
冷房などという、高価なものは望めるべくもない事は周知の事実であった。
しかし、えてしてそれは同時に堅忍不抜の精神と
寄るべのないマゾヒズムをも醸成するのであった。
この地獄に耐える事の出来ない生徒は落後者となり、
この無機質だが、どこか懐かしい第2の故郷とも呼べる場所から
駆逐・淘汰されていくのである。
故に昼休みの教室にはいつも涼しげな静寂が漂っていた。
えり子は幼い頃より本が好きであった。
しかし生まれてこの方、雑誌というものには頓着がなく、
今回の『an an』にしても読んでいるというよりも、
むしろ格闘をしている、という方が聞こえとしては正しかった。
実際にえり子が一週間前まで読んでいたのは
アンブローズ・ビアス著による『悪魔の辞典』であった。
高校生としてはどちらかというとリアリストに属しているえり子にとって
雑誌などどいう頭にある妄想を意識してつくられる薄っぺらい代物よりも、
ぶ厚い毛皮のようなシニックに固められた辞典の方が、実利にかない、
実生活をさらに豊かなものに変えてくれる、
つまりは崇高な精神の温床であると考えていたのである。
えり子のこの曲がった釘の様に、打ち所の無い考えは元来間違ったものではない。
いや、むしろそれが人間としては正解なのかもしれない。
顔は目と鼻の位置が一般人のそれとは明らかに異なっており、幅も広い。
男性的な顔立ちで、仲間内からは平安美人と言われていたが、
きっと平安の美人もその様な顔は見たことが無いであろう。
その癖、着る服は姉か母のお下がりであり女性的なものだったからまた救えない。
そしてえり子自身はそういう事をいちいち自認していたのであった。
しかし、またそれを周りの人間の様に口外するような軽薄さを持ち合わせてもいなかった。
多感な思春期をそのような、そんな骨の組成の問題で棒に振っていた、
女の心情とは幾ばくのものであっただろうか。
えり子の意識が自然に本の中に落ちていったのも、納得がいくというものである。
だからえり子は本の中で文字と対峙している時だけが、
自分が自分たり得たのであり、実際に他人から見てもその通りであった。
「ねぇ、えり子。来週の金曜日って空いてる?」
ふと、先週に友人の中で一番のズベ公であるヨシミがえり子に
声をかけてきた時の事を思い出した。万華鏡の様に隣にいる男が
一週間ごとに変わる様は見ていて飽きはしないのだが、
エテ公の発情期を見ているようで、あまりに動物的で、
えり子は好きにはなれなかった。
しかし並々ならないヨシミの気迫に押されて、その時は
一瞬たじろいでしまった。つまりは無意識裡に弱さを露呈してしまっていたのである。
「う、うん。大丈夫だけど、どうしたの?」
「あのさぁ、えり子って今、彼氏いないよね?」
遠まわしながらも、しかしそれが、さもこの世の真理であるかのよう
にヨシミは話を切り出してきた。えり子は少しいぶかしく思いながらも、
何とはなしにヨシミに漂っている雰囲気を汲み、正直に答えることにした。
「別にいないけど。どうして?」
別にいないけど、これはえり子にとって最大限の誇張であった。
生まれてこの方、えり子にとっては男という存在は到底、縁の無いものの
様に思えてしまっていた。しかし今までの生活を考えると無理の無いことである。
誰がこの鼻の曲がった、目の離れている、男性的な顔立ちの少女を救い出せようか?
えり子は自分が必要以上に卑屈になっているのを感じた。
「金曜日にT高校の男友達と遊ぶの約束をしたのね。いわゆるコンパってやつですか?
それでね女の子が一人足りなくて、ほら、ケイコもマサヨも彼氏いるでしょ?
しかもあの子達は妙に貞操観念が堅くてさぁ。だからえり子に頼んでるのね」
その瞬間、えり子の目前には不思議と後光の差しているヨシミの姿があった。
少しだけ眩暈がしそうになり、そして自分が持つ、この意外な感情に目を向けてみた。
目もくらむような素晴らしい理論である。理論と真理の前にはいつも膝を折り、
屈服してきたえり子である。えり子に来て欲しいから、という杓子定規なお願いを
されるよりも、どれ位、気の利いた文句であったであろう。
「うぅん、暇といえば暇なんだけど、もしかして私とヨシミの二人だけ?」
えり子はそう自嘲する様に聞き返すと、軽く肩を落とした。
いや、むしろ、肩で呼吸をした。
「そう、だね。えり子は行った事無いよね?コンパ。大丈夫だよ、大丈夫。
ただ愉しむだけのものだって。T高校なんて進学校は気の弱いやつばかっり
集まってるんだから。今度来るやつは、美術部の部長やってるやつでさぁ。
結構、カッコイイのよ。まぁ、あたし基準なんだけどね。でも如何せん気が弱くて・・・
何であんなやつが部長やっているのか不思議なくらい」
えり子は不覚にもヨシミの話っぷりに舌を巻いてしまった。
あまりにも真理的過ぎるのだ。そこにえり子は存在はしていても、いなかったのである。
えり子の存在自体を無視して進められる話。
えり子のような存在にとって、こういう話は、単純にお鉢が回ってくるのではなく、
仕方なく、それも最後の最後で回されてくるのだ。
その当たり前のような真実に向かって、表面上は何も抵抗らしい
抵抗を見せていなかったえり子にとって、ヨシミは自分の孤独とは
かけ離れた存在であり、自分が目指すべきものであることを一瞬の内にして悟ったのだある。
今までにも、こういう類の誘いは来た事が無いわけではなかった。
しかしそれは、
「ものすごくかっこいいんだよ。来ないと後悔するって」や
「そろそろクリスマスも近いしね。彼氏の一人や二人いないと、寂しいんじゃないの?」等、
どれもえり子を満足させ得るような理論や真理をもっていなかった。
今回つまるところは
私の狙っている人がいる→じゃあ、遊びましょう→人が足りない→私が困る→えり子登場
このフローがヨシミの中で出来あがっており、しかもそれを隠すことなく言ったのである。
今まではどちらかというと観念の世界に縛られていて、蔑む事さえ辞さないような、
そんな理由ばかりであった。もしかしたらヨシミは純粋に人間的なのかもしれない。
崇高な魂を持った人間に最も近いのかもしれない。
そういう思いを持ったことさえ、えり子としては意外なことであった。
あれほど蔑んでやまなかった、ヨシミに対して、今、自分は尊敬の念に
近い感情を持ちつつあるのだ。
そう思うことは、唯一、えり子を孤独の世界から開放する手段でもあったのだ。
「そうだね。うん、判った。行くよ。それで、日にちは?……」
この一連のやりとり以来、えり子のヨシミを見る目は180度変わってしまった。
ヨシミのやっている行動全てが気になり、把握していなければ不安で仕方が無い。
更には自分もヨシミになりたい、とさえ思うようになってきていた。
ヨシミにべったりになり、そして今はヨシミの読んでいた『an an』を借りて、
読んでいる最中なのであった。
どのページにも自分とはかけ離れた、そんな女性が映っており、
それを見て何が楽しいのかさえも、えり子には理解は出来なかった。
しかし、その理解できない、という部分にヨシミの強烈な魅力が隠されているのかと思うと、
ページを捲る手も、自然と早くなってきた。
“早く、もっと早く、ヨシミにならなければ。遅くとも今日の放課後までには、コンパまでには…”
えり子の手は汗ばんで、ページの端を汚し続けた。しかし無駄だと判ってはいても、
この努力だけはどうしても止めることが出来なかったのであった。